『コルナイ自伝』フォトアルバム-1 優れたグラフィックデザイナーのカシュ・ヤーノシュが描いた「温情主義」。1978年に著書の草稿を読んで着想。 ハンガリーで出版された著書『不足』の表紙。「裸の王様』を描いている(1980年) 長兄のバンディに抱かれて。姉のリリーと次兄のトミー(1929年) 両親と兄姉に囲まれて(1930年) ドイツ帝国学校一年生。最前列右端が筆者で、その隣がケンデ・ピーテル。ピーテルの後ろの女の子が五輪水泳金メダリストのスィーケイ・エーヴァ(1933年) ブダペスト5区アカデーミア通り18番地の3階が我が家。後に父の事務所になった。現在はこの建物全体が首相府として使用されている。 少年時代のポートレー 長兄のバンディ、次兄のトミーと一緒に(1943年) 党機関紙「自由の民」編集局での最初の上司で、1956年革命の闘志となったギメシュ・ミクローシュ(1950年頃) 共産党にたいする確信に満ちていた時代(1948年頃) 冬休みの一時(1949年) 編集局の仕事でウィーンの集会に出席(1950年) 最初の妻テリーと息子たち(1966年) 息子のガーボルとアンドラーシュ(1964年) ブローディ・アンドラーシュと(2004年) リプターク・タマーシュと。共同論文「二水準計画化」から30年の歳月を経て、イギリス・ケンブリッジにて(1992年) アカデミー経済研究所の「コルナイ・グループ」の面々。左からラキ・ミハーイ、カピターニィ・ジュジャ、シモノヴィッチ・アンドラーシュ、ラツコー・マーリア、サボー・ユーディット(2004年) 国際経済学連合の1963年円卓会議が開かれたイギリス・ケンブリッジのクラー・カレッジ。ここで最初の国際的デビューを果たした。 1964年の秘密警察の私に関する決裁書。「組織するのに不適切」とある。1985年に整理されたファイルではこの文書が引用され、「組織化に失敗」とある。 Econometricaの編集者として、またケンブリッジ円卓会議の組織者として、私の最初の助言者となったエドモンド・マランヴォーと(2001年) 西側のソヴィエト研究者との最初の出会い(ヴェニス、1965年)。左からアルフレッド・ザウバーマン、デーヴィッド・グラニック、ジョン・モンティアス、ハンス・ラウパッハ。このスナップショットを撮ったのは、グレゴリー・グロスマン。 『コルナイ自伝』フォトアルバム-2へ